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武蔵野航海記

武蔵野航海記

赤穂浪士

赤穂浪士の討ち入り事件を知らない日本人はいないと思います。

浅野内匠頭が江戸城松の廊下で高家筆頭の吉良上野介に切りつけて即日切腹になった第一の事件が起きたのが1701年3月です。

大石内蔵助以47名が討ち入りした第二の事件は翌年1702年12月に起きました。

これは浅見絅斎が「靖献遺言」を書いてから15年後です。

事件後「忠臣蔵」などというお芝居が出てきて事件がどんどん脚色されてしまって本当のところが良く分からなくなってしまっています。

上野介への賄賂をケチったからいじめられたのだという説も怪しいものです。

江戸時代はあらゆる仕事を複数の人間が担当していました。

同じ仕事をする二人は連絡を取り合ってやることのレベルあわせをするのが常識でした。

このときも内匠頭は五万石の大名で勅使ご馳走人でしたが、同行の院使のご馳走人は伊達左京亮という三万石の大名でした。

金が無いのはお互いさまだったでしょう。賄賂の多寡で二人の扱いに差がついた可能性はほとんど無いのです。

塩田に関するノウハウが原因だという説も、当時は吉良の領地では塩田がほとんど無かったからこれもデタラメです。

上野介に騙されて徹夜して接待会場の畳を換えたというのはありえません。畳の交換はご馳走人の仕事ではなかったからです。

そもそも勅使の接待に問題があったとき、真っ先に責任を追及されるのは上野介本人です。

この事件に関する信用できる資料は少ないのです。

幕府の判決文、討ち入りの時に内蔵助が持っていた「浅野内匠頭家来口上書」及び「梶川氏筆記」くらいしかありません。

「梶川氏筆記」を残した梶川与惣兵衛はちょうど現場にいて、刀を振り回していた内匠頭を後ろから抱きかかえた旗本です。

彼はこのときの振る舞いが天晴れだったというので500石加増されています。

これによると、梶川与惣兵衛と上野介が廊下で立ち話をしていたのです。

そこに「この間の遺恨おぼえたか」と声を掛けて上野介を後ろから切りつけた者がいたので、驚いて見たら内匠頭だったというのです。

芝居のように上野介が内匠頭をなじり倒したので、堪忍袋の緒が切れた内匠頭が刀を抜いたというのとはまるで違います。

上野介は刀を抜かずに逃げました。

そして内匠頭は周囲の者達に取り押さえられました。

江戸城内で公務遂行中に怪我や病気をしたものは費用全額を幕府持ちで治療するというルールがありました。

傷を負った上野介には早速幕府の医者がやって来て治療をしています。

これは上野介が業務遂行中に災害に会ったと認定されたということです。

現場にいた者達は、これを喧嘩ではなく内匠頭が発狂して起きた事件だと思ったのです。

内匠頭も別室で取調べを受けましたが、終始冷静な態度だったので最初は精神異常だと思っていた取調官も正常と判断しました。

そして個人的な怨みで上野介に切りつけたと判断しました。

当日の午後四時ごろ出た判決は下記です。

「浅野内匠頭は、場所柄もわきまえず個人的な宿意をもって吉良上野介への刃傷に及んだ。不届きなので田村右京太夫へ預け、切腹を仰せ付ける。
上野介は場所柄をわきまえて手向かいせず神妙である。
医者を差し向けるので保養するべく、自宅に退出してよろしい」

内匠頭の精神は正常で、個人的怨みにより切りつけたという事実認定です。

そして江戸城内で刀を抜き殺人を図ったという罪で切腹の刑を宣告されています。

二人が喧嘩をしたとは認められていません。従って喧嘩両成敗で上野介も罰せられるということにはなっていません。

喧嘩ではありませんから、内匠頭がどのような怨みを上野介に抱いていたかは裁判には関係ありません。

被告である内匠頭も江戸城内で切りつけたことを認めていますから、事実認定は終わっているわけでこれ以上判決を遅らす理由はありません。

だから即日切腹の判決が出たのです。

なお最近精神科医が本を出していて内匠頭を精神鑑定しています。

これによりますと内匠頭は精神障害だったというのです。

異常な行動をしたあと吃驚するぐらい冷静沈着になるのが精神病患者の特徴だということです。

正常な人はむしろ自分のしたことに驚いて取り乱すのが普通なのです。

内匠頭が上野介にどんな怨みを抱いていたのかは皆目分っていません。

怨みを抱いていたのかもはっきりしていないのです。

切腹する前に内匠頭は家来に自分の気持ちを伝えたいと思いましたが書面を書くことは許されず口上を伝えただけでした。

その口上とは

兼ねては知らせ置くべく存ぜしも、そのいとまなく、今日のことはやむを得ざるに出でたる儀に候。定めて不審に存ずべきか

これだけです。何も分らないのです。

赤穂浪士たちは上野介の屋敷に討ち入った時「浅野内匠頭家来口上書」を持参しています。

その中で主君内匠頭は恨みを果たせなかったと書いています。しかし何の怨みかは書いていません。

内蔵助たちにも分らなかったからでしょう。

内蔵助が何を思い、何を目的にして討ち入りをしたのかも今となっては良く分からなくなっています。

これは私がここで述べたいこととは関係が無いのですが一応私の推定を延べます。

江戸時代の代々の家老の仕事はお家を安泰に保つことで、この目的が殿様個人の意向より優先します。

従って、家老が駄目な殿様を幽閉したり殺したりというのが結構ありました。

内蔵助も代々の家老でしたから当然内匠頭個人より家の再興を優先しました。

内蔵助は内匠頭に嫌がられていましたから、個人的には内匠頭に対して良い感情はなかったと思います。

むしろ馬鹿なことをしてくれたと舌打ちをしたことでしょう。

だから仇討ちより内匠頭の弟に家督を継がせて家を再興しようと懸命の努力をしていました。

一方堀部安兵衛など浪人の身から就職した者たちは殿様と個人的な感情が繋がっています。だから急進派でした。

結局、内匠頭の弟は親戚に預けられるという結果となりました。

これは幕府が浅野家を再興する気が無く、判決も間違っていなかったということを宣言したということでした。

お家の再興が絶望的になった段階で内蔵助は堀部安兵衛たちと合流したわけです。

おそらく家来たちは内匠頭が精神障害であったことはわかっていたのでしょう。

浪人となって経済的に困窮していたし、武士の意地もあったでしょう。

だから彼らは亡主の仇を討った忠義の侍として再就職を有利にしようとしたのではないかと私は考えます。

当時の浪人は大変な就職難でしたから尋常なことでは再就職できません。

命を賭けてバクチを打ったのでしょう。

幕府の裁判で死刑になったのだから、仇は幕府のはずで上野介ではありません。

しかし幕府に怨みを持った武士を雇う殿様はいませんから、可哀想な上野介を仇だとでっち上げたのでしょう。

これば私の推測です。別にはっきりした根拠はありませんが、ロジカルに考えたらこうなると思ったまでです。

47人の浪人が吉良邸に討ち入りし吉良上野介の首を取ったことで江戸はおろか日本中が興奮の渦に巻き込まれました。

当時の有名な学者も揃って自分の意見を発表しています。

理路整然としていて現在でも違和感のない意見を述べているのは佐藤直方です。

天皇家の家系が昔から続いていることは何の値打ちもなく、儒教と神道はもともと同じだなどという説を馬鹿にして、師である山崎闇斎から破門された男です。

彼は内匠頭が幕府の法を犯して死刑にされたのだから、上野介を仇だと考えるのは筋違いだと考えました。

死刑が不満だと思うのならば、そういう不当な裁判をした幕府が敵になるはずです。

内匠頭も47人の赤穂浪士も幕府の法律を無視し自分達の怨みを優先し勝手な事をしたわけです。

そもそもあだ討ちというのは、不当に殺された者の子がするものです。

しかしこの場合は家来がするのですからあだ討ちとはいえません。

また主君が犯罪を行おうとして未遂に終わったので、家来が代わってその犯罪を完了させようとするものです。

これはとても褒められた話ではなく、やはり犯罪だと考えました。

この直方のような正論はごく少数で、圧倒的多数は47人の赤穂浪士賛美者だったように色々な本に書かれていますがこれも怪しいのです。

47人の浪士は四つの藩に分けて預けられました。

細川藩では賓客待遇で毎回最高の食事が給されました。

しかし伊予の松平家は浪士の扱いの細かいことまで幕府にお伺いを立てています。

病人が出たら薬を与えてもかまわないか、下着は通常のものでいいか、行水をさせてもいいか、楊枝を使わせて良いかなど

これはこの藩が彼らを犯罪者だと考えており、待遇を良くしたらあとから幕府にとがめられると思ったからでした。

また当時の侍の日記を見ても討ち入り直後に手放しで賞賛しているのではなく、なにやら変な事件が起きたというのが第一印象だったようです。

討ち入り直後の世論は、彼らを犯罪者と考えるのか、侍の鑑と考えるのか決めかねていたというのが実態でした。

世間が態度を決めかねている時に林信篤が「復讐論」を発表しました。

信篤は大学頭という日本の官営朱子学のボスで、今で言えば東大の総長と文部大臣を兼ねたような権威を持っていました。

彼が「復讐論」で赤穂浪士を賛美したのでした。

赤穂浪士は天下の法を破り首都で徒党を組んで幕府の高官を殺したのだから死刑は当然だとしています。

一方で浪士たちの行動をほめています。

太平な世が続いて怠惰になった武士達は、今回の義挙で侍の精神が何であったかを知ることができたというのです。

この趣旨を細かく解釈すると下記のようになります。

内匠頭は上野介を殺害しようとして果たすことができないで亡くなりました。

そこで家来達はその主君の心情を推し量り、主君の出来なかったことを果たすのが正義だと感じたのです。

そして上野介の邸に討ち入り幕府の高官を殺害することが天下の法を犯すことになることは承知の上で行動にでたのです。

このような行動は非常に立派だと時の文部大臣が褒めたのです。

この考え方は山崎闇斎や浅見絅斎の考えと同じです。

本場の儒教では、個人がいくら内心では正しいと思ったことでも「礼楽」に合わなければ正しくないのです。

「礼楽」とは社会組織や個人的道徳を含むルールのことを言います。

このような儒教の原則を闇斎は我流に解釈してしまいました。

自分の心を正しくするために一所懸命に修養した結果えられた結論は、宇宙のルールと一致すると考えたのです。

この結論を「礼楽」のような外観から判断できる基準によってチェックしなければならないという考えはないのです。

逆に自分が正しいと考えたことと現実が違えば現実を自分の考えに合わすように行動を起こさなければならないとしたのです。

この考え方は明恵上人の「あるべきようは」と同じです。

無欲になれば自然のなかで自分の占める位置が分るというのが「あるべきようは」であり、客観的な基準のチェックを考えていないのです。

結局当時の文部大臣は、浪士たちがした行為は非常に立派であったが、幕府の法には違反していると言ったのです。

ということは幕府の法は正義に反しているということになります。

そして自分が正しいと思って行ったことが幕府の法を犯すことになったとしても立派だと宣言したのです。

徳川幕府の公式見解が出たわけですから、その後に続く学者達の意見も大多数は林大学頭と同じでした。

そして世論もそちらの方向に引っ張られていき、上野介は悪党で赤穂浪士は義士だという評価が定着しました。

この情況を見て喜んだのは絅斎でした。

絅斎は日本の正統な支配者は天皇家で、徳川幕府は天皇の権限を犯している不当な権力で打倒しなければならないと考えていました。

そして勤皇討幕の士を育てるために「靖献遺言」を書きました。

こんな時に幕府自らが、幕府の法を犯しても立派で賞賛すべき行為があると宣言したわけですから喜んだのも当然です。

勤皇の志士が、「天皇は幕府を嫌っていて打倒すべき」と思っていると信じ込んだらどうなるでしょう。

彼は自分を天皇の家来だと勝手に考えていますが、一般人である彼が天皇に直接会うことは出来ません。

「天皇は幕府を頼りにしている」という噂話を聞いても、それは「君側の奸」が勝手にそういっている可能性もありますから信用できません。

主君である天皇が望んでいることを実現するのが家来の勤めであり、それは幕府の法に反しても立派なことなのです。

自分の命を捨てるのは覚悟の上ですから怖いものはありません。

こうして一人前の勤皇討幕の志士が出来上がるのです。

絅斎は当然ながら林大学頭と同意見で赤穂浪士の行為を賞賛しました。

主君の望みをかなえることが正義であり、たとえ現実の法律を破っても倫理的には立派だとしたのです。

徳川幕府は愚かなことをしたものです。

大名は幕府の法で統制し、大名の家来に対しては主君へ忠誠を誓わせることで徳川幕府は安泰だと考えたのです。

そしてちょっと考えればわかる論理的な矛盾を無視してしまいました。

朱子学の導入といい赤穂浪士の賛美といい、日本人の発想を深く考えずに一時しのぎを繰り返したために自滅したのです。

でたらめな筋書きの「忠臣蔵」によって林大学頭や絅斎の思想は日本人の心に深く染みわたりました。

自分が正しいと思ったことは現実の法律を犯すことになっても立派な行為であることには変わりないということが日本人の常識になったのです。

江戸時代の百姓一揆の首謀者は死刑になりました。殿様の法律に違反したからです。

その一方で一揆の要求は正しいと認められることが多かったのです。

これも忠臣蔵の影響です。

実際の歴史の流れは絅斎が望んだ通りになっていきました。

一般庶民は「忠臣蔵」によって、教養ある武士は「靖献遺言」と詩吟によって絅斎の思想に染まっていきました。

そして明治維新の思想的準備が完了したのです。

天皇の家来を自認している勤皇の志士たちは、天皇が夷狄を嫌い幕府が崩壊することを望んでいると思いました。

そして正義は自分達にあると思って、幕府の法や主君である殿様の意向など歯牙にもかけずに討幕に突き進んでいきました。

さらには天皇自身の意向をも無視して討幕活動を行いました。

幕末の孝明天皇(明治天皇の父親)は幕府を頼りにしていて幕府を倒すなどとは考えてもいませんでした。

ところが一般の勤皇の志士たちはそんなことは知りませんから、「天皇の胸中を察して」討幕運動を命がけで進めていました。

幕末もぎりぎりのところで、薩長などの討幕勢力は天皇に討幕の勅語を出させようとしました。

ところが孝明天皇がそれを了解しませんでした。

その直後孝明天皇は謎の死を遂げ、未成年の明治天皇が即位しました。

薩長勢力に暗殺された可能性が極めて高いのです。

そして明治になりました。

明治の天皇政府の実現によって絅斎の思想はその役割を完了しました。

ところがその影響はまだまだ続いたのです。

昭和になって議会を中心にした明治憲法体制に対する右翼の攻撃が激しくなっていきました。

5・15事件や2・26事件を起こした将校達は明治憲法に規定された重臣達が天皇の意思を妨げていると思ったのです。

そしてこの重臣達を退治し天皇が自ら政治を行えば日本は良くなると考えました。

そして総理大臣やその他の重臣を殺害しました。

天皇が望んでいることを実現するのは正義でありその前には法律を破ることなど問題にしていなかったのです。

ところが明治憲法では大臣を任命するのは天皇自身ですから、重臣たちが天皇に嫌われていることなどありえないのです。

実際に事件が起こったとき天皇は「叛徒」に対して強硬な態度をとることを「希望」しました。

「命令」はしていません。「叛徒」たちの処分を決めるのは天皇ではなく憲法に定められた機関だからです。

青年将校の裁判の時、日本中から青年将校に対する温情のある判決を望む嘆願書が何十万通と裁判所に送られてきたのです。

私は「忠臣蔵」の影響は今でも続いていると思います。

日本では今でもしばしば重大なことが法律を無視して決められているからです。


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